人間の尊厳を奪う犯罪
09年、記者は日弁連に人権救済を申し立てた。日弁連が結果をまとめて長崎市に勧告を行ったのは、申し立てから5年経った14年のことだった。翌年には記者の労災が認定されたが、市は日弁連の勧告を拒否。19年に重ねて記者の代理人弁護士と新聞労連が長崎市と交渉するも決裂。記者は提訴に踏み切った。
――私が自分を取り戻すきっかけとなったのは、14年の日弁連の判断です。市に人権侵害是正の勧告が出たことで安堵しました。
その後、法律事務所に証拠として預けていた私物を取りに行った時のこと。風呂敷包みを持ち帰って家で開けると、事件当日の着衣一式が、きれいに折り畳まれて出てきました。あの日つけていたネックレスもきちんと収まっていて。私は茫然とそれを見つめ、胸に抱いてわんわん泣きました。傷つけられたあの日の私が帰ってきたように思えたのです。
周りからは、事件を思い起こすようなものは捨ててしまったほうがいいと言われていました。でも裁判になれば証拠になると思うと捨てられない。とはいえ見るのもつらいから、とりあえず取っておいて、グチャグチャの状態のまま日弁連に提出していたんです。それを法律事務所のどなたかが、きれいに畳んで返却してくださった。
私はずっと自分を大切にすることができなくなっていましたが、第三者が私に敬意を払って対応してくれたことに感動しました。折り畳まれた衣服は、「もう一度ご自分を大事になさって生きてください」というメッセージのように感じました。廃人みたいな暮らしをこれからも続けるわけにはいかないと、目が覚めるような気持ちになりました。