石井さん6歳、写真館で撮影。空襲を免れた貴重な一枚(写真提供◎石井さん)

踊りは大好きだけど、勉強は大嫌い

私が生まれたのは、1926年の9月1日。「天一天上」といって、「この日に生まれると人に恵まれて育つ」と母が聞いて、あの時代に帝王切開で私を産んだの。周囲には内緒で。当時の医療では命懸けです。

それで私、母からは「お前には何もしてやれないだろうから、人に恵まれる良い日に産んで、先払いした」って言われて、あとはもうご勝手にやりなさい、と(笑)。母は商売をやっていましたから、あんまり子どもに手をかけませんでしたね。でも今は、母の願ったように、さまざまな人の縁に恵まれる人生を送っていると身にしみて感じます。

二・二六事件が起きたのが10歳の時。日本中が戦時色に染まる前の、絵に描いたような下町の育ちです。私の育ったところは、東京・上野の不忍池からほど近い、下谷数寄屋町の花柳街。今も残っている松坂屋や鈴本演芸場の界隈です。ちょっと路地を入ると、とんかつ屋にお寿司屋、下駄屋に酒屋などが並び、非常に庶民的な町並みでしたね。

私は3歳の頃から日本舞踊を習っていて、とにかく踊りは大好きだったんですが、勉強は大っ嫌いで。小学校の屋上から踊りのお稽古場が見えるので、もう行きたくて行きたくてたまらない。

そこで先生に、「おしっこした~」と嘘をつき、「立ってなさい」と廊下に出されるのをこれ幸いと逃げだして、踊りのお稽古に行ったりしていました。おかげで、踊りはずいぶんやりましたね。歌舞伎座にも出させてもらったり。母は、お金がかかるとずいぶん不平を言ってましたけど。

父(伊志井寛さん)はその頃すでに新派の看板俳優でした。新劇の俳優さんたちと違って思想的に弾圧を受けるということはなかったけれど、戦地への慰問はだんだん増えていきましたね。母はもとは芸者でしたが、父と結婚した後は小唄の家元になり、二人とも忙しかった。