与謝野晶子先生の授業を受けた
だから、私はおばあちゃん子だったんですよ。よく近くの弁天様にお参りに連れて行ってくれて、帰りには必ずゆで卵を買ってくれました。今でもゆで卵は大好きです。着物を何度も解いては縫い直し、その後はちゃんちゃんこに仕立て直し、最後は、小豆を入れてお手玉をたくさん作ってくれたんですよ。
戦争が始まり、食べるものが本当になくなって、毎日、「明日は死んでしまうかもしれない」と思いながら暮らしていた頃は、お正月といってもお餅どころか、お米も野菜も何もない。ああ、せめてお腹いっぱい食べてから死にたいと思った時、ひらめいた。
「小豆がある!」
押入れの奥からきれいなお菓子の箱に入ったお手玉を探し出して、大事にとっておいたちょっぴりのお砂糖を入れて……。おいしかったですねえ。言葉もなく、夢中で食べました。
小学校を卒業すると、親から「女学校には行きなさい」と言われて、試験は作文だけというので入ったのが、お茶の水の文化学院。先輩に女優の高峰秀子さんがいらして、それで私も少しは勉強する気になって。
先生方がすごくよかった。与謝野晶子先生に習ったのですよ。与謝野先生は黒い紋付の羽織を着て、教科書をちょっと首をかしげて見てらして、とてももの静かな素敵な方でしたね。自由で開放的な校風でしたので、校外に絵を描きに行ったり、お茶の水で映画のロケを観たりもしました。
ところが、13歳の時に胸の病気にかかり、1年半の入院生活を送ることになりました。学校を休むだけでなく、この時は踊りもできなくなって。
病気が治り、みんなより2年遅れて、中野区にある女子経済専門学校附属高等女学校に入学しました。戦争がだんだん激しくなって、学校に行っても勉強どころじゃなくなり、勤労動員の日々でしたけど。