空襲の時と同じ音がする

1945年3月の東京大空襲の日は、おばが亡くなったという知らせを受けて、両親が杉並区の和田本町まで出かけていたので、当時住んでいた港区飯倉の自宅には、私一人でした。飯倉には海軍将校の親睦団体、水交社の本部があったので、狙われるんですね。

あの日は空襲警報が鳴って、夢中で防空壕に駆け込みました。しばらくして、静かになったのでいったん自宅に帰ったら、もう燃えていた。焼夷弾が落ちたんです。いざという時に備えて、逃げる際には着られるだけ何枚も重ね着をしていたものの、それ以外はなんにも持ち出せませんでした。

気が付いたら、歩いていました。とにかく、父と母のいる和田本町へ行かなきゃいけない。早く父母のもとにたどりつかなければ、一人になってしまうような気がしたんです。

和田本町は自分の学校の方面だという記憶だけを頼りに、あっちへ行き、こっちへ行き、真っ暗な中をただただ歩きました。足元にはたくさんの死体が転がっていて、つまずいたり、またいだり……。どうしても通らなくてはいけないから仕方ないとはいえ、死体を見ても平気になっていく自分自身が怖かったです。

一晩中歩き続けて、ようやく父と母に会えた時は、お互いにただ呆然として、言葉も出ませんでした。「もう、うち、ないよ」とだけしか言えなかったです。

私、花火が大嫌いなんです。橋田壽賀子先生は花火がお好きで、以前、熱海の橋田さんの家に呼ばれて花火大会を見たことがあった。だけど私がずっと下を向いているものだから、「あんた寝てんじゃないわよ、花火は上だわよ」と言われて。

でも、見られないんです。というのも、花火をボーンと打ち上げると、上から火花がパラパラパラと降ってくるでしょう。あれは空襲の時と同じ音がするの。あの日、防空頭巾を被って、焼夷弾が空から降ってくるのを、避けるようにして走っていましたから……。その話をしたら、二度と誘われなくなりました。