最期まで機嫌よくはいられないけれど

さて、ここまで終活に前向きに取り組んできたという話をしてきましたが、この取材を受けている8月上旬現在、体調に変化が起きているのを感じています。

連載していたコラムをまとめた『逝きかた上手』という本を出版した直後の6月頃から、ガクンと調子が悪くなり、歩くこともままならなくなってしまいました。全身が痛くてたまりません。主治医に医療用の麻薬を処方してもらい、服用していますが、これほどまでとは……。

この取材を終えたあと、7人の患者さんの診察にあたりますが、本当のことを言えば、今も横になっていたいくらいです。仕事の現場を離れる日も遠くないと思います。

最期は自宅の2階にある和室で静かに逝くのが理想。一日に3回、家族の誰かが様子を見に来てくれれば十分です。いずれにせよ死に目に会うことにはこだわらなくていいと伝えてあります。

意識がなくなってしまえば、私には嬉しいも悲しいもありません。それより意識のあるうちに語り合う時間を持つことのほうがどれほど大切かと思うのです。

誰の人生もいいことばかりではありません。むしろ、ままならないのが人生だと言えそうですが、だからこそ体験できることもあるのだな、と。

たとえば私は家族のありがたさを改めて痛感しています。

親身になって寄り添ってくれる家族の姿に、「自分はこんなに愛されているのか」と感じる毎日です。このことが「自分の人生は素晴らしい!」と思う気持ちに直結しています。

確かに体はしんどい。しかし私の心はポカポカとして満ち足りています。

どのような亡くなり方でも痛みや苦痛はともなうので、人が機嫌よく死の瞬間を迎えるのは難しいけれど、余命を知ったあとも機嫌よく生きることならできる。そして自分なりの「死に支度」を通して、最期まで自分らしく生き、思い残すことなく旅立つことは可能だと思うのです。