自己責任論とは、想像力の欠如である。
自己責任論とは、想像する努力の怠慢である。

 

しかし、何かにつけて分断が起きるこの社会では、自己責任論に陥るのも仕方がないのかもしれない。たとえば、人が言う「裕福ではない」が指す世帯収入には、大きな幅がある。その幅が想像できないのは、後述するような個々人の背景を考えれば、そうおかしなことではないだろう。

ある起業家がインタビューで「自分の家は裕福な家庭ではなかった」と言っていた。世帯収入が全国トップ3に入る区に生まれ、子どもの頃からいろいろな習い事をさせてもらい、私立大学を卒業したのち、起業資金を親に借りる。裕福ではないと言うその人は、私から見れば「実家が太い」を体現した人のように映った。

親友のはるもそうだ。彼女はいつも「うちはお金ないよ。政治家って選挙ですごいお金いるからね」と言っているが、奨学金を借りることなく、ご両親に仕送りしてもらいながら、都内の私立大学に通った。「仕送りはいくらだったの?」と聞いてみたことがある。

「それって家賃込みで?」と返ってきて、親に家賃を払ってもらえる世界線があったことに驚いた。「家賃を入れたら月15万くらいだったかな」とはるは教えてくれた。実際、2020年度「学生生活調査結果」から月額の仕送りを算出すると、大学生の仕送り平均額は95391円だから、はるの家が浮世離れしているわけでは決してない。

はるもそのご家族も思いやりが深くて、とても優しい人たちだ。人を自己責任論で切り捨てるような態度とは対極の人たちだ。私が言いたいのは、そういう優しい人にだって、想像が及ばない範疇(はんちゅう)はもちろんあるということ。

付き合う人の階層やバックグラウンドは固定化しがちだ。比較というのはたいていその狭い世界のなかで行われる。その世界からあまりにかけ離れた生活をする人たちは、視界にすら入ってこない。そういうことは、本当によくある。大きな世界の縮小版だと無意識に思っている自分を取り囲む世界とは、細分化されたごく小さな世界の、さらにその縮小版に過ぎなかったりする。

『死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)