教育は、給料のいい会社へ就職するためだけのものなのだろうか。小学生から16年間の学びは、新卒カードを使って就職する、そのただ一回のためのものなのか。

私はそうは思わない。きっと、学びは一生のものだ。そして、もっと大局的に見て、貧困の連鎖を解消するために教育の平等は欠かせないものだと思う。

 

生まれで選択肢が限られるような社会は、私は変わるべきだと思う。もちろん高卒で働くことも、社会人になってから大学に入り直すことも、立派な選択肢だ。通信制や夜間部の大学に入る道だってある。

しかし、大学進学を《選べない》と《選ばない》では、天と地ほどの差がある。貧困家庭に生まれたがゆえに、選択肢が限られてしまうことが《仕方のないこと》だなんて私は絶対に思わない。それは変えられる余地のある現実だから。

 

人生は、叶うことばかりではない。
完全な平等もあり得ない。
でも、生まれによって我慢を強いられ、夢をあきらめなければならない現実はおかしい。
経験や機会、権利を「買える」こともおかしいと思うのだ。

 

どんな生まれであっても、学びたいと思えば志望する大学を受験でき、目指す職業に就ける。そんな社会を私は見たい。次の世代には、あきらめの連続を残したくない。

 

※本稿は、『死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。


死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)

壮絶人生から見る社会。寄稿すればバズる。20代論客、初のエッセイ。
〈まだ子どもだった頃、私にとって育った村は逃げられない檻だった。絶え間のない暴力と、際限のない貧困を閉じ込める檻〉
あの子はほんとに、なまけもの?貧困は自己責任なのか?塾も習いごともあきらめて、独学で国公立大学に進学した著者は言う。「それでもまだ、スタート地点に立てたわけではなかった」と。みなが自分の《強者性》を自覚する。そして、今より5ミリずつ思いやりの手を伸ばす。その総和が社会を優しく、生きやすくするのではないか?