〈一部〉の逆転ストーリーを持ち出して「そこにある格差」を無効化するのは間違っている。(写真はイメージ/写真提供:photo AC)

よく、「逆境もプラスに変えていける」というようなことを言う人がいる。「親ガチャ」という言葉が流行した時も、そうだった。親に恵まれなくても、努力次第でどうにでもなる、という発言がSNSやメディアで散見された。そして、一部には実際に逆境を糧にしていく人たちがいるのも事実である。

しかし、私は思うのだ。〈一部〉の逆転ストーリーを持ち出して「そこにある格差」を無効化するのは間違っている。

人生のアップダウンが激しい成り上がりの物語はメディア映えする。そして、メディアは世論をつくる。しかし、現実には〈無いもの〉にされている人たち、実質的な身分制度の枠組みから抜け出せない人たち、光の当たらない人たちが、逆境の渦中にある人たちの圧倒的多数を占めている。

「成り上がり」自体は悪くない。しかし、そういう人はどうしても生存者バイアスに陥りがちだ。「努力すれば逆転できる」といった強者の理論を振りかざす側に回ってしまう。そしてメディアはそれを感動ストーリーとして、世間に垂れ流す。

努力……。尊い言葉だろうか。しかし現実は、努力するより前の段階ですでに選別がある。だから、そんな言葉を使う前に、確かに存在している行き過ぎた格差を認め是正するべきだ。健康で文化的な最低限度の生活さえままならない人たちに目を閉ざしてはならない。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」は憲法で保障された権利である。
「自己責任」以前に、「社会の責任」が果たされるべきだ。