ライターになって感じた、貧困への無理解や、風当たりの強さ、「貧困叩き」の現実は、想像以上だった。(写真はイメージ/写真提供:photo AC)
貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。
当たり前の日常を送る者の視界から、こぼれ落ちる人たちがいる――。ライターになってさらに強く感じるようになった《自己責任論》の傲慢さとは。

自己責任:想像する努力を手放さない

ライターになって感じた、貧困への無理解や、風当たりの強さ、「貧困叩き」の現実は、想像以上だった。私は自分の体験を書くだけでなく、社会的に困難な立場にある人たちの取材をするようになった。そしてその記事への世の中の反応から「生存者バイアス」の厄介さを痛感している。

「バイアス」とは「偏り」「偏向」を示す言葉だ。「生存者バイアス」は、生き残ったものだけを評価して偏った法則を見出す(結論づけする)ことを言う。そこでは、生き残れなかったもの、淘汰されたもの、零(こぼ)れ落ちたものは《無いもの》とされる。

人が「今、その状況に在る」のは、そこに至る努力の結果というだけではない。タイミングや運、家族を含む人間関係、社会的背景など、あらゆる要因が複合的に作用した結果だ。そんなのは考えてみれば当然のことなのだが、「自分の努力のみで今が在る」と思い込んでしまう人は少なくない。そして、自分と似たような状況にあって、それを乗り越えられない人々に対して「努力不足だ。自分が悪い」と、いわゆる自己責任論を押しつけて、切り捨てる。

しかし、よく考えてみて欲しいのだ。実際は、誰一人として、同じ条件ではないのである。スタートラインも違えば、背負っているものも違う。自分が乗り越えられたからと言って、似た境遇の人が乗り越えられるとは限らない。

いろいろな要因が重なって、〈たまたま〉乗り越えられたかもしれない困難を、すべて自分の努力に帰するのは、あまりに傲慢だと思う。「努力は報われる」「夢は叶う」それは〈その人の場合、努力が報われて夢が叶った〉というだけであって、一般化できるものでは決してない。