安易に「わかるよ」と言うよりも「わからないけれど理解したい」と言えるほうが、よほど思慮深いと私は思う(写真はイメージ/写真提供:photo AC)
貧困家庭に生まれ、いじめや不登校を経験しながらも奨学金で高校、大学に進学、上京して書くという仕事についたヒオカさん。現在もアルバイトを続けながら、「無いものにされる痛みに想像力を」をモットーにライターとして活動をしている。
当たり前の日常を送る者の視界から、こぼれ落ちる人たちがいる――。無邪気なネイティブ強者たちが、《強者性》を認識する難しさとは。

想像力:自分に置き換えてみることの限界

差別をする人や、困難を抱えている他者に対して無理解な人がいる。そういう人たちに「自分がそうなったらどうするの?」というアプローチがよくある。

「自分もそうなった時のことを考えると、そういう人たちが救われる社会が、生きやすい社会だよ」というわけだ。他者に自分を置き換えてみる。そうやって想像力を働かせてみる。そうすれば他者への見かたが変わる、と。

これはきっと有効な手段だ。しかし、最近は限界を感じることも多い。

 

たとえば億単位で資産がある人が、路上生活者になることはあるだろうか。日本人が難民になることはあるだろうか。もちろん、ないとは言い切れない。しかし、その確率は極めて低い。

実際、お金に困ることなく大人になった人は、貧困家庭で育った人の気持ちはわからないだろうし、体験しようもない。自分とは遠い立場であるほど、その人のことを自分事として捉えることは難しくなる。

自分が絶対になり得ない属性への想像力も必要なんじゃないか。
どこまでも「自分が始点」の思考や想像では限界があるのではないか。
そんなことを思うのである

人は、完全に他者と同じ立場になることはできないし、気持ちを理解することだってできない。でも、だからこそ、他者の視点に立って、その立場を慮(おもんぱか)る営みが尊いのではないだろうか。安易に「わかるよ」と言うよりも「わからないけれど理解したい」と言えるほうが、よほど思慮深いと私は思う。

 

同情できる対象こそ救われるべきという思考は危うい。
人は同情・共感できない属性を差別し、時に排除を肯定する。

 

感情論では平等は守れない。そもそも感情の前にバイアスや社会的偏見(スティグマ)がある。

例を挙げれば、子どもの貧困は同情されやすいが、中年や高齢者の貧困は同情されにくい。たとえば非正規雇用の人や、外国籍の人など、関心を持たれにくく、その権利を蔑(ないがし)ろにされやすい属性の人たちもいる。