当たり前の日常を送る者の視界から、こぼれ落ちる人たちがいる――。無邪気なネイティブ強者たちが、《強者性》を認識する難しさとは。
想像力:自分に置き換えてみることの限界
差別をする人や、困難を抱えている他者に対して無理解な人がいる。そういう人たちに「自分がそうなったらどうするの?」というアプローチがよくある。
「自分もそうなった時のことを考えると、そういう人たちが救われる社会が、生きやすい社会だよ」というわけだ。他者に自分を置き換えてみる。そうやって想像力を働かせてみる。そうすれば他者への見かたが変わる、と。
これはきっと有効な手段だ。しかし、最近は限界を感じることも多い。
たとえば億単位で資産がある人が、路上生活者になることはあるだろうか。日本人が難民になることはあるだろうか。もちろん、ないとは言い切れない。しかし、その確率は極めて低い。
実際、お金に困ることなく大人になった人は、貧困家庭で育った人の気持ちはわからないだろうし、体験しようもない。自分とは遠い立場であるほど、その人のことを自分事として捉えることは難しくなる。
自分が絶対になり得ない属性への想像力も必要なんじゃないか。
どこまでも「自分が始点」の思考や想像では限界があるのではないか。
そんなことを思うのである
人は、完全に他者と同じ立場になることはできないし、気持ちを理解することだってできない。でも、だからこそ、他者の視点に立って、その立場を慮(おもんぱか)る営みが尊いのではないだろうか。安易に「わかるよ」と言うよりも「わからないけれど理解したい」と言えるほうが、よほど思慮深いと私は思う。
同情できる対象こそ救われるべきという思考は危うい。
人は同情・共感できない属性を差別し、時に排除を肯定する。
感情論では平等は守れない。そもそも感情の前にバイアスや社会的偏見(スティグマ)がある。
例を挙げれば、子どもの貧困は同情されやすいが、中年や高齢者の貧困は同情されにくい。たとえば非正規雇用の人や、外国籍の人など、関心を持たれにくく、その権利を蔑(ないがし)ろにされやすい属性の人たちもいる。