無邪気なネイティブ強者との軋轢(あつれき)。それは、個人のすれ違いレベルであれば自分だけ我慢すればいいかもしれない。しかし社会の問題としてはもっと深刻だ。なぜなら、世の中の発言権、決定権を持つ人たちの多くは、ネイティブ強者(生れながらの強者)だからだ。なぜか。説明するまでもないだろう。政治家の世襲率の高さをいちど見て欲しい。

先日の選挙で、知的・学習障害の当事者が「選挙の情報は煩雑で理解ができず、どこに投票すればいいかわからない」と言う声を目にした。このように、マジョリティが気づきもしないところで、はじかれてしまう人達がいる。不可視化された弱者の都合は反映されないし、弱者の前提は共有されない。社会の制度設計は、強者寄りにつくられている。結果として、弱者の身の丈には合わないようになっている。だから、零れ落ちる人たちがいる。

家賃が払えない。
奨学金が返せない。
治療費が払えない。
学費が払えない。
どれだけ頑張っても、明日が見えない。
常に不安。
常に苦しい。
常にお金がない。

安心できる家がある。
暴力に怯えず済む。
不調な時は仕事を休む。
病院に行く。
食べるものに困らない。
学びたければ学ぶ機会がある。

そんな、「普通」が手に入らない。

 

※本稿は、『死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。


死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)

壮絶人生から見る社会。寄稿すればバズる。20代論客、初のエッセイ。
〈まだ子どもだった頃、私にとって育った村は逃げられない檻だった。絶え間のない暴力と、際限のない貧困を閉じ込める檻〉
あの子はほんとに、なまけもの?貧困は自己責任なのか?塾も習いごともあきらめて、独学で国公立大学に進学した著者は言う。「それでもまだ、スタート地点に立てたわけではなかった」と。みなが自分の《強者性》を自覚する。そして、今より5ミリずつ思いやりの手を伸ばす。その総和が社会を優しく、生きやすくするのではないか?