子ども食堂を訪れたことがある。子ども食堂とはいうが、その運営者は、時に親子でも受け入れ、大人子どもにかかわらず、分け隔てなく食事を振る舞っている。しかし、この子ども食堂の活動について、よく意見が来るそうだ。

「子ども(に支援すること)はわかるけど、親は自己責任でしょ。お金を取るべきでは」
子どもはいいけど、成人すればいきなり自己責任とでも言うのだろうか。おかしな話だと思う。

子どもの貧困、若者の貧困、中年の貧困、高齢者の貧困は独立しているものではない。
本当に格差がなくて、スタートラインが同じ状態で人生がスタートし、成人するのであれば、社会人になった時の所得が本人の努力の結果であるという考えも、まだあり得る。
しかし実際は違う。

子どもの貧困には同情的でも、成人したとたん、努力していないからだ、と切り捨てるのは矛盾しているのではないか。今、みんなが同情している貧困家庭の子どもたちは、その困難を、成人になったら全てきっかり払拭(ふっしょく)し、生まれながらの負をすべて清算できるだろうか。そんなはずはないのである。

現状の学校や行政のサポートではカバーできない問題を抱えた子たちは、いずれ社会人になる。そしてそれまで培ってきたもので収入を得ていく。学歴や資格がなければ所得の高い職業に就くことも難しい。借金を返しながらの生活かもしれない。持病だってあるかもしれない。負の連鎖を断ち切ることは、そんなに容易なことではない。

 

必要なのは明日はわが身、という限定的な視座だろうか。

いかなるバックグラウンドの、どんな職業の、どんな年齢の、どんな性別の、どんな思想の人であっても、等しく人権がある。そういう共通認識こそ、この社会に必要なものではないか。

文字通り「すべての人は『健康で文化的な最低限度の生活』を送る」ことが保障されなければならない。命の価値はどこまでも平等なのである。

『死にそうだけど生きてます』(ヒオカ:著/CCCメディアハウス)