マインドフルネスと坐禅
中脇 「そうですか。その上手な先生は何を教えてくれるのですか?」
倉島 「実は、禅宗の修行では何も教えてくれなかったのですね。〈ただ座っていなさい〉と放り投げられるといいますか。こういった感情を持ったらどうすればいいのだろう……などはマニュアル化がされていないものですから、掴むのに非常に時間がかかります。お寿司屋さんが師匠の技を盗むまで何十年かかるといいますが〈背中だけ見ろ。余計なことは聞くな。見て盗め!〉そういう世界ですね。しかし私はスリランカの瞑想の先生に瞑想法を教えていただきました。例えば歩き方をゆっくりにする、つまり日常の所作をちゃんと深く観察しなさいと。〈ヴィパッサナー〉つまり〈見る〉ということですね。自分の一つ一つの所作・動きや五感の変化を丁寧に観察を続けると、2週間座ったときと同じような境地が得られると気づきまして、長く座れば良いという訳ではなく、しっかりと導いてくれる先生、達観されている先生に教えていただき、それを素直に受け入れることが今の時代に合ったトレーニング方法だと思います」
中脇 「マインドフルネスと坐禅は、普通の人には同じものではと思ってしまいます。マインドフルネスは〈今、今このときを意識する〉。それが呼吸を意識することだったりします。それと今の話は同じようなことをおっしゃっていると思うのですが?」
倉島 「マインドフルネスと坐禅の違うところは、やはり指導者・先生の在り方だと思います。マインドフルネスはとりあえず誰でも、一人で始められるものですね?」
中脇 「そうですね」
倉島 「自分でマインドフルネス瞑想をしているときは良いと思うのですが、日常生活に戻ったときに、結局また以前と同じような悩み苦しみ・雑念にとりつかれてしまい、社会生活とマインドフルネスが自分自身の人生において、ちゃんとリンクしているかを気付けるかは甚だ疑問に感じています。〈俺はマインドフルネスやってんだよ!〉と、かえって我が強くなってしまって、人格形成において何が正しいのか指導者がいないと誰も導いてくれないケースなどもあるのではと」
中脇 「なるほど。では禅宗の中で坐禅をすることの目的は何なのですか?」
倉島 「やはり、自分が〈仏である〉という認識を24時間持ち続ける。24時間〈仏である〉と意識できると、自分の身体作法、心だけじゃなくて体も所作も全てが仏であると認識しながら生活を送る。これが究極の禅寺のトレーニングだと思います」
中脇 「自分が〈仏である〉という意識は、つまりは他人も〈仏である〉と意識することになりますね」
倉島 「そうですね。ですから我々僧侶はお互いに道や廊下ですれ違う時は合掌で拝み合うのが作法なのですけれど、これは年齢関係なく、お互いに仏であるということで丁寧な合掌をするのです」
中脇 「なるほど。それを意識するために座る。それを実感するために座るのですね」
倉島 「その柱がしっかりしていないと、いくら小手先のテクニックでいろいろな枝葉を伸ばそうとしても、やはりそこには何も宿らない、実らないというのが坐禅を中核とする禅宗の所以だと思います」