かつて京都で暮らした頼朝が、都と距離を置いた理由

源頼朝はその様子をじっと観察していた。

ああ、朝廷の力は強力なんだな、京都で武士政権を作ろうとしても、朝廷の影響力を強く受ける「都の武士」は貴族や寺社勢力などの支持を取り付けることができずに、その企ては失敗するんだな。

そう考えたからこそ、頼朝は東国の鎌倉で政権を作った。

さらに、朝廷との連絡は絶やさなかったものの、直接に京都に行くことは2回にとどめた。都の文化や生活のすばらしさを知っていた(13歳まで京都で暮らしていましたから)にもかかわらず、です。

頼朝は朝廷との連絡は絶やさなかったものの、直接に京都に行くことは2回にとどめた(『源頼朝公上洛之図』広重/伊勢兼、国立国会図書館デジタルコレクション

東国の武士が京都と密な連関を以て暮らしていた、たとえば京都にも生活拠点をもっていて、東国の地元と京都を行ったり来たりするような生活をしていたのだ、と説く研究者もいらっしゃいますが、どうでしょう? 承久の乱以前については、ぼくにはちょっと想像がつかない。