当時、東西の往来は容易でなかった
そういう人はいたでしょうけれど、よほど有力な武士じゃないでしょうか?
だって、有力武士のトップである上総広常とか千葉常胤ですら、保元の乱にあたって動員できた兵は2人とか3人、そんな数です。
保元の乱から源平の合戦まで20年ですので、中世における時間の流れ(現代の1年の変化は中世では10年、としばしばいわれます)からして、そんなに変わっていないでしょう。
地方の武士には大番役という任務が課せられ、10年くらいに一度は京都で生活し、朝廷を守護しなければならなかった。
それはものすごく重い義務で、だからこそ、その課役の軽減(消滅、ではない)を実現させた頼朝のご恩を忘れるな!と承久の乱の時に政子さんが演説したわけです。
東西の往来は容易ではない。
当時の武士には二階層があって、上級武士は朝廷と連絡を保っている層。それこそ京にも拠点をもっていて、朝廷に奉仕し、官位(基本的に地方官。もっとも成功して国司)を授けられる。
それ以外の武士は「一所懸命」。地方に於いて自分の領地を懸命に守り、領地を名字にし(三浦とか畠山とか)、京都とは連関をもたない、というかもてない。
それで将軍になれるのは、平賀とか足利とか、あるいは小笠原とか武田など、上級武士に限る。ぼくはそんなイメージをもっています。