源氏、いよいよ平氏討伐へ
平氏の没落後、京の軍事指揮権を握ったのは木曽義仲だった。しかし、配下の兵の略奪を防ぐことができず、義仲自身の粗野なふるまいもあって急速に信用を失っていく。
一方、頼朝は鎌倉制圧後から和平を提案するなど朝廷との関係改善を進めた。同年10月には、東国の支配権を認める宣旨(せんじ=天皇の命令)を獲得し、鎌倉の政権は公認のものとなる。
京の義仲は後白河法皇との対立を深め、院御所(いんのごしょ)を襲撃して政権を奪う。上洛の口実を得た頼朝は、異母弟の範頼(のりより)・義経を大将軍とする義仲討伐軍を派遣。
義経勢が宇治(京都府宇治市)を突破して法皇を確保すると、義仲は近江の瀬田(滋賀県大津市)に逃れ、範頼勢に敗れ、討ち死にした。
義仲を滅ぼし官軍となった鎌倉軍は、いよいよ平氏討伐に乗り出すこととなる。