頼朝没後に再び勢いを盛り返す

でもやがて、京都からホンモノの官僚たちがやって来た。大江広元、三善康信、二階堂行政らですね。

『武者鑑』に記された北条時政。(『武者鑑 一名人相合 南伝二』画:一猛斎芳虎/国立国会図書館データベース

そうすると、武士でありながら事務仕事も得意です、程度の時政の能力では勝てません。頼朝は舅どのではなく、もっぱら京下りの官人と幕府の運営を行うようになった。

ですので、時政は頼朝が亡くなるまで、不遇だったのだと思います。

駿河の守護に任じ、遠江の国司を務めていますので、現在の静岡県に勢力を扶植していったのでしょうが、幕府のお膝元といったら相模・武蔵になりますので、武力編制の面でももう一つ、でしょうか。

時政が水を得た魚のように活動的になるのは、頼朝の没後です。リーダーを失って、仲間の御家人が呆然としているのを尻目にガンガン前に出て、13人の合議制を組織、新鎌倉殿・頼家から裁断権を奪取しました。

うまく立ち回って頼家の側近No.1だった梶原景時を追い落とすと、比企一族を滅ぼし、返す刀で頼家を幽閉、のち暗殺。実朝を担ぎ上げて後見人に収まります。ついで畠山重忠を討って武蔵国に北条の勢力を伸張させる。

この辺りの手際はみごとですね。