イメージができていないのに先に手を動かしてしまうと、失敗する

岸本 そうなんです。よく〈作者のボイス〉という言い方をしますが、人の肉声がみんな異なるように、書かれた文章から聞こえてくる声も違う。翻訳する際には、この作家の声は日本の作家だったら誰かなと考えるようにしています。

酒井 それはわかりやすい! 両者の声のイメージが固まってから訳し始めるのですね。

岸本 はい。イメージができていないのに先に手を動かしてしまうと、失敗するので。

酒井 準備期間が大切。

岸本 原書をざっと読みながら作者の声を探し、近い声の作家の作品を読むなどイメージを固めていく。2回目に原書を読む際に、わからない部分を飛ばしつつ行間に和訳を書き込み、それが終わったらパソコンで原稿を打ちはじめる、という流れです。

私の場合、キーボードに向かう前に手で書く作業を入れないと、なんだか落ち着かなくて。そこで、いろいろと考えを詰めているのかもしれません。

酒井 たとえばルシア・ベルリンの場合は、どんな声をイメージされたのでしょう。

岸本 しいて言うなら、随筆家の武田百合子さんの文章から聞こえてくる声が近いでしょうか。あとは、ミシン目の切り取り線やストローの素材などについて思索している作家ニコルソン・ベイカーは、東海林さだおさんと三浦俊彦さんを足して2で割ったイメージでした。(笑)

 

岸本佐知子オススメの本~翻訳の世界・1

『オレンジだけが果物じゃない』
<イギリス>
オレンジだけが果物じゃない

ジャネット・ウィンターソン(著)白水Uブックス

狂信的なキリスト教徒の母の養女として徹底的に教義を叩き込まれた少女が、同性を愛したために教会からも家からも追放され、たった一人で人生の荒波に乗り出す。まさに「宗教二世」の話ですが、これほぼ作者の実人生なんです。でも詩情があって、とても美しい。母親も魅力的な怪物として描かれています(岸本さん)

 

『内なる町から来た話』
<オーストラリア>
内なる町から来た話

ショーン・タン(著)河出書房新社

犬、猫、熊、サイ、羊……。一章ごとにさまざまな動物をテーマにした物語を美しい絵と文章でつづる、大人の絵本です。字のない絵本『アライバル』で知られる作者の画力はすさまじく、一つ物語を読んだあとに現れる絵の素晴らしさにしばし言葉を失います(岸本さん)

<後編につづく