婦人公論.jpで連載された吉田篤弘さんの掌編小説集『中庭のオレンジ』が単行本になりました。ほんの少しの空き時間や眠る前のひとときに、日常をはなれて心にあかりを灯す小さな物語。発売2ヵ月で3刷決定と、ご好評いただいています。
このたび、この本が生まれた背景を著者自らが語る〈特別寄稿〉を添えて、第1話を再配信します。くつろぎの物語を、どうぞお楽しみください。
始まりの物語
吉田篤弘
中庭というものに魅かれます。
そこは建物によって囲まれた「中」とみなされた空間であるのに、建物の内側から眺めれば、まぎれもなく「外」であるという矛盾が愉快だからです。
「中」でも「外」でもない、「中」でも「外」でもあるところ。
この短篇集に集められたいくつかの小さな物語は、そんな中庭にひっそりとある一本のオレンジの木に実った果実の物語です。物語のひとつひとつがオレンジの果実であるとも言え、どこか遠いところの物語であったり、アパートの隣の部屋に暮らす誰かの物語であったり──中庭ならではの「中」と「外」の物語が一冊の本となってここにあります。
この一冊は、中公文庫の創刊50周年を記念して上梓されたものですが、この本に並べられた小さなお話のいくつかは、中公文庫におさめられた自著の何作かと中庭的に共鳴しています。
たとえば、『針がとぶ』という自分の黎明期と言っていい頃に書いた一冊は、長篇小説でありながら短篇小説集でもあるという、中庭的矛盾をかたちに出来ないものかと模索した作品です。基本的な構成は短篇小説集なのですが、全体を俯瞰して読みなおすと、長篇小説としても読めるという仕掛けになっています。このスタイルは、これまでにも何度か試みてきたのですが、『中庭のオレンジ』においても、そうした読み方や捉え方ができるように意図しました。
あるいは、俯瞰からクローズアップに視線を転じると、中公文庫におさめられた作品群と、いくつかの符合や関連が見つかるかと思います。
「ジャレ」というお話に登場する風神は、『モナ・リザの背中』──これは長篇小説です──にも登場しますし、「五番目のホリー」というお話で示唆される美味しいスープをつくる極意は、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』と通底しています。
また、「ジョー・バンセン」というお話は、表題どおりの名前を授かった犬について書かれているのですが、常磐線の駅の片隅で拾ってきたという設定もそのままに『天使も怪物も眠る夜』という2095年の未来を舞台にした物語に登場します。いまからおよそ七十年後のお話ですが、この物語の中には、ひとつの真理とそれに伴う問いがあり、それは、「右手と左手は握手ができない」「しかし、本当にそうだろうか?」というものでした。これは作者自身への問いでもあり、宿題となっていたこの問いに、物語として答えてみようと思い立ったのが、『中庭のオレンジ』という本を書くことになったきっかけのひとつです。
といっても、探していたのは問いに対する結論や結果ではありません。
結果という言葉は、まさに果実が実を結ぶことを意味していますが、中庭に実った果実は、「結果」や「結末」や「終わり」といったものだけを意味するのではなく、そこからまた新しい命が芽生えてゆく「始まり」でもあるからです。
何かが終わるのではなく、何かが始まっていく物語を書きました。
著者プロフィール
吉田篤弘(よしだ・あつひろ)
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を続けている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『それでも世界は回っている』『屋根裏のチェリー』など多数
第1話
「中庭のオレンジ」
「気ままな古本屋でございます」
ベリーはいつも申し訳なさそうに言いました。
「今日はここにおりますが、明日はどこにいるか分かりません」
行商人から譲り受けた屋台に、ありったけの古本を詰め込み、彼はこの小さな国の隅から隅までを旅しながら、本を売り歩いていました。
ときには、街から離れた誰も住んでいないようなところまで足をのばし、森を抜けて湖の近くまで行ったこともあります。昔の伝説集などをひもとくと、そのあたりは、「森の向こうのこの世の果て」と呼ばれていました。しかし、あの大きな争いが起きて、人も国も散り散りになったとき、新たな境界線が引かれて地図が書き変わりました。以来、この世の果てがどこにあるのか誰にも分からないのです。
それでも──いや、だからこそベリーは遠いところまで行きました。
(誰からも忘れられたような遠いところに本を届けたい)
ベリーが本を売り歩く仕事を続けているのは、その思いが胸の真ん中にあるからでした。
森の手前に一軒の小さな家を見つけたのです。
ベリーがそのあたりへ来るのは初めてで、(遠くまで来た甲斐があったぞ)と息をつきました。夕陽が森の向こうに沈みかけています。家には柔らかなあかりがともっていました。
(それにしても喉がかわいた。水を一杯、いただけたらいいのだけれど)
彼の願いは、水ではなく一杯のコーヒーによって叶えられました。迎え入れてくれたのは、その家に一人で暮らしているサラという女性です。
「古い本を売り歩いています」とベリーが玄関口で伝えると、
「それはまた願ってもないこと」
彼女は小さな声でつぶやいて、ベリーを招き入れました。
外観からも察せられましたが、家の中は小ぢんまりとして片付いており、コーヒー豆を挽いたいい香りがしています。大きなテーブルと何脚かの椅子、銀色の薬罐が置かれた台所、きれいに磨かれた窓、年代物の古風な模様のカーテン、数えきれないほどの色を織り合わせたカーペット、そして、いまさっきまでそこに誰かが座っていたかのような揺り椅子。