それは夜の中庭です。
誰もいない図書館の中庭に、一本の大きなオレンジの木がありました。びっしりと緑の葉が生い茂り、つやつやとした鮮やかな実がいくつも覗いています。
香りがしました。夕方から夜へとうつり変わる青い空気の中に、清らかなオレンジの香りが漂っています。
ベリーは虫眼鏡を地図の上に置きました。すると、夜も中庭もオレンジの木も消え、しかし、香りばかりが確かに地図の上に残っています。
「どうぞ」
小さなグラスに充たされた琥珀色の酒を彼女は地図の上に置きました。
「いつだったか、祖母は一人で街へ出向き、籠からあふれるほどのオレンジを持ち帰ってきました。それは、あの中庭のオレンジで、祖母はその見事な果実でお酒をつくりました」
グラスの中の酒はそのときに仕込んだものだという。とうに輝きを失った広口瓶からグラスにうつされ、あたかも古い地図の中から時間を超えてベリーの目の前にあらわれたようでした。
「祖母が言っていました。このオレンジには物語が宿っていると。中庭に埋めた本は土になり、オレンジを育んだその土には、この世のあらゆる物語が含まれているのだと。ただ一本きりのオレンジの木は、一本でありながら森のように綾を成し、もう誰からも忘れられてしまったけれど、いまも中庭にひっそりと物語の果実を実らせている──」
そう話す彼女の声は、きっと祖母の声とひとつになっていたでしょう。
ベリーはグラスを手もとに引き寄せ、香りに誘われるまま、夜の中庭に足を踏み入れた心地になりました。
「祖母は晩年、すっかり視力がおとろえ、本を読むことができなくなっていました」
彼女の視線が揺り椅子に向けられていました。
「いいんだよ、と祖母は言いました」
その声が揺り椅子のあたりから聞こえてくるようです。
「本を開かなくてもね、この酒を飲めば、体の中で物語が始まるんだよ」