一度決めたら、後ろを振り返らない
お互いひとり暮らしに戻ってから1年半ほど経った頃、ご近所さんのひとりから電話がありました。母が転倒して、動けなくなっているとのこと。救急車で搬送されたら、恥骨骨折に加えて、骨盤の複雑骨折と診断されました。リハビリを頑張って自宅に帰りましたが、2ヵ月後ベッドから落ちて再び入院……。
ああ、これが「95歳の壁」か、と思いました。元気だった人も突然ガタガタッときてしまう。ジェットコースターのような毎日に、私の血圧は乱高下を続け、こちらも倒れそう。高齢者同士の介護は甘くない。
病院からは「ひとり暮らしは無理です。高齢者向け施設を探してください」と告げられました。母は「最期は家で迎えたい」と折に触れて言っていたのです。しかし、母は家にヘルパーさんが入ることを嫌がるし、私が同居して介護すれば共倒れになりそう。施設に入ってもらうしか選択肢はありませんでした。
そしてついに、母に告げる日が。私はなるべく丁寧に説明しました。自宅に帰るのは難しいこと、施設にはいいところもたくさんあること、私が母にぴったりの施設を見つけること……。母はそれを聞いて両手で顔を覆って泣き出しました。さらに説得が必要かと思ったその時、突然顔を上げて言ったのです。「わかった。惇子に任せた!」と。
それからの母は吹っ切れたようでした。私が見つけてきた施設について尋ねることもなく、病院から直接施設に向かっても文句を言わず、大事にしていた家について聞くこともない。
それどころか施設にもすぐ慣れ、再びきちっとした生活を始めたのです。部屋には置物や絵を飾り、お気に入りのお洋服でおしゃれを楽しんでいて。一軒家からワンルームに移ったことを悲観してはいないようでした。痩せ我慢じゃないのは顔を見れば一目瞭然です。
そんな母が不思議だったのだけど、原稿を見て、母の本音がわかりました。母は一度決めたら、後ろを振り返らない。なくしたものを数えず、今あるもので満足するのね。
ひとり暮らしの延長だと思っていたようです。ヘルパーさんに全部お世話になるのではなく、できることは自分でする。コロナ禍で友人となかなか会えないなら、読書を楽しむ。前向きに過ごしていました。会いに来た編集者に「人生、大満足です!」と言ったというんだから、驚くしかありません。