1964年、「仁左衛門歌舞伎」で演じた『油地獄』の与兵衛役。遊ぶ金に使った借財の日限が来て、近所の油屋女房お吉に金を無心するが断られ、ついにお吉を惨殺。この放蕩息子の与兵衛が出世作になった。

――この与兵衛は、それまで若い役者が演じたことがなく、お客様も「お芝居」としてご覧になっていたのが、20歳の私がやったことで、ドラマが生々しく伝わったんだと思います。演技的にそんな、いいわけがない。(笑)

そしてそのあくる年の夏、父が『実盛(さねもり)物語』をやることになった。話の筋がよくわかるように、その前の幕、「義賢(よしかた)最期」の場を復活させてつけることになり、その義賢を私がやらせていただくことになったのです。

このお役は与兵衛とは対照的な骨太の武将なんですが、それを華奢な私が演じる。その意外性から好意的な評をいただいて、東京の松竹の専務が観に来られて。これを東京で、と言ってくださり、当時渋谷にあった東横ホールでやらせていただきました。

これをきっかけに東横ホールの公演に時々使ってもらえるようになったから、そう考えるとおっしゃる通りこの時期が第一の転機と言えるのかなぁ。

 

その後、東京で坂東玉三郎と組んだ「孝玉コンビ」が人気を集めるのが1970年頃から。あの当時の新橋演舞場における、たとえば四世鶴屋南北作の『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)(お染の七役)』などは、まるで今どきの若者芝居みたいな熱気に溢れ、分けても孝夫演じる鬼門の喜兵衛の悪の色気にはゾクゾクさせられた覚えがある。

――当時アングラとか新しい芝居が盛んで、歌舞伎には興味を持ってなかった若い人たちが初めて演舞場で南北の芝居を観て、ショックを受けた。

それで「孝夫・玉三郎で南北を観よう!」というビラを作ったり、署名運動をして、会社(松竹)に嘆願書を送ったり、そういういろいろな運動が話題になり、それが『桜姫東文章』などの上演につながっていくわけですよね。

その後、『四谷怪談』の民谷伊右衛門とか、『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』の源五兵衛とか、『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』の立場(たてば)の太平次(たへいじ)とかにもつながっていく。

その頃から若手芝居で活躍できるようになったから。第二の転機は演舞場の若手花形歌舞伎ですね。