1993年、大葉性肺炎から膿胸と食道亀裂などの重い病を得て、一年間の休演。その時は病床では何を思っておられたのか。
――実は病気になる前に、父と当時の永山武臣松竹会長の間で、仁左衛門という名跡を私が十五代目として継ぐ話が決まり、そのことを伝えられました。私はずいぶん悩んで、兄と話し合い、一度はお受けする決心をしたんです。でも、やっぱり自分の中では、本当に三男の自分が継いでよいものかと悩み続けていました。
そうしているうちに病にかかり、一時は生死の境をさ迷いましたが、病と闘っている最中に思ったのは、神様が名前を継ぐことを認めてくださるなら死なないだろう。逆に資格がなければこのまま死ぬだろう。何事も神様の御心次第──そういうことでした。
そして、一命を取り留め、私は悩みも吹っ切れて、名前を継ぐ決心をしました。それからは毎月の歌舞伎公演の宣伝を見て舞台に立っている人たちがうらやましく、自分も早く舞台に立ちたいと思っていましたね。
翌年一月、歌舞伎座での『お祭り』の踊りと『弥栄芝居賑(いやさかえしばいのにぎわい)』の鳶頭で復帰した舞台には、父・十三代仁左衛門は居合わせなかった。
――父は前月の京都顔見世公演中に倒れてね。私と同じ舞台に立つと言ってギリギリまで頑張ってくれていましたが、残念なことにそれは叶いませんでした。
無事千穐楽を迎え、その足で京都の家に報告に帰ったら、ベッドに横たわっていた父が、大事にしていた三味線一棹をお祝いに贈るという目録と、「おめでとう」と力のはいらない手で一所懸命書いた手紙を渡してくださいました。父が旅立つふた月前のことです。