「片岡家の芸風を受け継ぐと同時に、自分なりの仁左衛門像を創りあげたいという思いが、強かったんです。」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第13回は歌舞伎役者の片岡仁左衛門さん。東西の垣根なく、日本の役者でありたいという思いから襲名の公演で江戸の芝居の『助六』を演じたと語る片岡さん。自分たちは使命を背負っていると話します――。(撮影:岡本隆史)

<前編よりつづく

日本の役者でありたいという思い

そして1998年1月、2月の歌舞伎座。『廓文章(くるわぶんしょう)(吉田屋)』の伊左衛門、『助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)』の助六ほかで十五代目を襲名。やはりこれが大きな第三の転機ではないだろうか。

――そこへ飛んじゃいますか。確かにこれは大きな転機ですね。

この公演で関西の大名跡を継ぐのに、なぜ江戸の芝居の『助六』を演じるのか疑問に思われた方もいらしたようですが、私は東西の垣根なく、日本の役者でありたいという思いがあったんです。そして片岡家の芸風を受け継ぐと同時に、自分なりの仁左衛門像を創りあげたいという思いが、強かったんです。

 

その襲名の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」で、誰よりも仁左衛門さんのことが大好きだった十八代目中村勘三郎が、おどけ役のくりを買って出てその喜びを身体いっぱいに表した。

――あれは私もすごくうれしかった。哲(のり)(勘三郎)の『髪結新三(かみゆいしんざ)』とか『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』なんか映像が残ってるけど、今見ると、本当に素晴らしい。名人と言ってよいと私は思いますね。まぁ、気に入らない役もありましたがね。(笑)

『刺青奇偶』で、彼が手取りの半太郎、私が政五郎親分。命を懸けた最後の大勝負の場面、二人が見つめ合ってるときに、実際に言葉は交わさないんだけど二人の間で無言の言葉が行き交って……。役の上では楽しめないけど、役者として楽しかったなぁ。

 

勘三郎が座元格の平成中村座にも、新演出の歌舞伎以外には仁左衛門さんが出演した。『仮名手本忠臣蔵』、「沼津」(伊賀越道中双六)そして「吃又(どもまた)」(土佐将監閑居の場)など、勘三郎が又平女房お徳の役を健気に、楽しげに演じる姿が、今も目にある。

――彼は本来立役だけど、「吃又」のお徳なんかも私は好きでしたね。彼が亡くなって、私は「吃又」をやるのをやめました。