「芝居の上手い人はなりきらなくてもお客様の心を掴むことができるんですが、でも私はそれができないんです。」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第13回は歌舞伎役者の片岡仁左衛門さん。いつも役を演じるのではなく、その人物になりきっていると語る片岡さん。若い頃は役者を辞めて、映画のほうへ活路を求めようと思ったこともあったと話します――。(撮影:岡本隆史)

役者を辞めようかと思っていた

すらりとした長身に爽やかな色気をたたえて、「一声二顔三姿」をそのまま体現する片岡仁左衛門さん。しかも緻密に考え抜かれた芸の工夫がいつも満ちていて、不思議なことにそれがまっすぐ観客の心に届き、客席がジワーッとなる。なぜなのか。

――まぁ、その役を演じるのではなくその人物になりきっていると、お客様に伝わると思うんですよ。芝居の上手い人はなりきらなくてもお客様の心を掴むことができるんですが、でも私はそれができないんです。

だからお役によっては心底疲れるんですよ。手負いの役なんかもちろんそうですが、たとえば『仮名手本忠臣蔵』六段目の勘平とかね。

自分が義父を殺してしまったと思った瞬間から何も言わずにじっと堪えている間とかも、上手い人は苦しんでいる心を形だけでお客様に伝えられます。でも、私の場合は本当に苦しまないと、その空気が作り出せないんですよ。

 

仁左衛門さんは半世紀近く本名の「片岡孝夫」で舞台に立った。関西歌舞伎の灯が消えかかっていた時代、「関西に孝夫あり」の声が聞こえてきたのは、父・十三代目仁左衛門が私財を投じて主催した歌舞伎公演で演じた『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の放蕩息子、河内屋与兵衛。これが第一の転機と言えるのでは。

――まぁ、その前に、役者を辞めようと思った時期があったんです。昔は今と違って、同じ松竹でも西と東に分かれていて別経営で、関西歌舞伎は赤字続き。歌舞伎がなかなか打てない時期が続き、私は16、7の頃役者を辞めて、映画のほうへ活路を求めようと思ったんです。

そんな時、亡くなられた坂東竹三郎さんとか、大谷ひと江(のちの七代目嵐徳三郎)さんとか、いわゆる門閥外の若い方たちが小さいホールで一所懸命勉強会をやってるわけですよ。

それなのにこの世界に、しかも片岡家に生まれた者が逃げ出してよいのかと、ずいぶん悩んだ末に歌舞伎で生きる決心をしたんです。

その時の決心がなければ今の私は存在しないわけだから、それが私の人生の第一の転機と思うんですよ。