ミッキーさんは日英の血を引くご両親のもとに東京・赤坂で生まれたが、戦時中は日本に居づらくて中国の上海に移住、戦後すぐに日本に引き揚げる。大変なご苦労があったと思う。

――上海では親父がロシアの踊り子と大連へ駆け落ちしちゃって、でもうちの母親は結構いい女だったから、イギリス国籍の男に頼み込んで擬装家族ということにして、日本への引き揚げ船に乗ることができた。俺が七つのとき。

帰国後に二人は結婚して、俺の義父になるんだけどね。その人が貿易商のカーチス氏で、のちに日本コカ・コーラ社の社長にまでなった人物なの。博識で、いろんなことを話してくれて、俺、育ててもらったと思う。

 

第1の転機となるのは、和光学園中学3年のときに、立教大学の軽音楽バンドにスカウトされて、歌手への道が開けた、ということになるのでは。

――3つのテンキって、晴れと曇りと雨じゃないの(笑)。その天気でなきゃ、まぁ、そうだね。

俺、暗い少年だったから、お袋がこのままじゃいけない、というのでウクレレ買ってくれて、次にギター弾くようになって、そのうちハンク・ウィリアムスの「ジャンバラヤ」がヒットしたときに、俺がカントリーもどきを学校の校庭で派手にやってたの。和光学園の中二のとき。

そしたら和光の先輩が立教大学のバンドに入ってて、うちへ来ないか、って誘われたの。そのころは英語で歌う子があまりいなかったからね。それで六大学音楽リーグ戦で全国を回ったりしてましたね。

そのうちアメリカ進駐軍のキャンプからも声がかかるようになって、「グッバイジョー」とか「ジャンバラヤ」を歌って回ってプロスタートになるわけだから。当時、銀座には「ACB(アシベ)」とか「テネシー」とか、新宿には「スワン」というジャズ喫茶があって、ロカビリーで回ってた。

「スワン」の隣が「ともしび」という歌声喫茶で、こっちの音楽が途切れると隣のロシア民謡が聞こえて来て、面白かったね。