
膨大な数の記事が上がってきたが
ネットには何でも転がっていて、いまや人類は情報を与えられすぎなのだと考えていた。が、先日、日本在住の女性とオンラインで話をしていたときに、それは間違いだったとわかった。彼女によれば、日本のコンビニで売っている冷凍大学芋が絶品なのだという。解凍せずに食べると悶絶するほどおいしいそうで、へー、どこのコンビニなんだろうとネット検索して驚いた。某コンビニの冷凍大学芋に関する夥(おびただ)しい数の記事が上がってきたからである。「レベル高すぎて感動します」とストレートにおいしさを称えるものだけでなく、「アイスクリームと一緒に食すべし」など食べ方の情報まであった。
わたしは衝撃を受けた。どうして今日までこれらの情報を目にしなかったのか。毎日机に座ってネットを巡回しているくせに、これほど話題になっている事象について知らなかったのである。いくらネットに情報が転がっていても、けっして触れることができない情報もあるのだ。わたしの身内が亡くなったことを知っているらしいAIは、さかんに墓地やお供え物ギフトの情報をクリックさせようとしてくれるが、さすがに大学芋とわたしをリンクさせることはできなかったようだ。
これと似たような、「どうして今日までこれを目にしなかったのか」という衝撃を、母の死後にも受けた。家族というものは、最も近しい間柄ということになっている。近くにいて、何でも知りすぎているからこそ、その濃厚な関係性がきつい、ということは昔から繰り返し文学のテーマになってきた。
が、毎日ネットを見ている人間が冷凍大学芋について知らなかったように、家族のことこそわたしたちは知らない。だから、「え」と驚く情報が死後に出てくることになる。情報ぐらいならまだいい。生身の人間が残すものには「物品」もあるのである。