内田さん、日本で地下鉄に乗っていたところ、見知らぬ男性に突然「おかあさん」と声をかけられたそうで――(写真提供:Photo AC)
「コロナ禍でも人への思いやりを大切にし、いつもの暮らしを守ろうとしてきた。それは、中世から疫病と戦い公衆衛生の礎を築いてきた、半島に生きる人々の品格なのかもしれない」と話すのは、イタリア在住のジャーナリスト、内田洋子さんです。ミラノ、ヴェネツィア、リグリア州の港町、船で巡った島々……。イタリアにわたって40年以上になる内田さんの日常には、たくさんの物語があるといいます。その内田さん、日本で地下鉄に乗っていたところ、見知らぬ男性に突然「おかあさん」と声をかけられたそうで――。

おかあさん

「おかあさん、どうぞ」

吊(つ)り革につかまり考えごとをしていると、突然、隣に立っていた人からそう声をかけられた。

関東全域に不要不急の外出自粛が要請されていたただ中の、ある日のことである。どうしても外せない面談があり、久しぶりに出かけた東京は殺伐としていた。

せつない気持ちで地下鉄に乗った。もう午後で、でも退社時刻にはまだ間がある時間帯で、車内はそこそこの混み具合である。

皆は乗り込むとそそくさと自分の立ち位置を決めて、他人とはできるだけ離れ、しゃべる相手はなく、車内の全員が揃(そろ)ってうつむき携帯電話を見ている。

ひとつの空間に、たくさんの独りが乗り合わせている。