中間層の人々の暮らしを足元で支えていたものとは

日本企業が勢いに乗って世界進出をする一方で、中間層の人々の暮らしを足元で支えていたのは、昔ながらの商店街にあるような個人商店だった。

駅前の商店街には、八百屋、魚屋、豆腐屋、洋服店、おもちゃ屋、食堂、酒店、駄菓子屋が軒(のき)を連ねていた。全国チェーンの店が進出しつつあったとはいえ、中規模以下の町の商店街を支えるのは個人経営の商店であり、そこで働くのは主に親族か、地元の人たちだった。

たとえば建物の1階を利用したラーメン屋では父親が調理を担当、母親が配膳(はいぜん)と会計を担当し、2階の住居では祖母が子供の面倒をみるとか、八百屋では祖父母が店番をしている間に父親が野菜の仕入れや配達をするといった具合だ。店が忙しく人手不足の場合は近所に住む親族が手伝いに来たり、地元の人を雇ったりすることが多かった。

個人商店は、親から子へと継がれる世襲(せしゅう)制だ。子供は幼い頃から親の手伝いをし、中学や高校の卒業と同時に働きはじめる。そこで仕事のノウハウを学び、常連客や取引先の人たちにかわいがってもらいながら一人前になり、やがては家庭を持って年老いた親に代わって店主となる。

商店街に集まる個人商店は、横のつながりも強かった。店が集まって商店街組合をつくるだけでなく、地元の祭りを運営したり、自治体と一緒にイベントを開催したりした。

他にも消防団や商工会議所、それに青年会や婦人会といったコミュニティもたくさんあった。個人商店を中心に、地域の人たちが親戚同士のような付き合いをしていたのだ。こうした地元密着型の社会は、店同士の協力関係を堅固なものにし、商売を安定させる要因となっていた。

地元密着型の社会は、店同士の協力関係を堅固なものにし、商売を安定させる要因となっていた(写真提供:Photo AC)

書店であれば、同じ商店街の床屋や歯科医院の待合室に置く雑誌を定期的に納入していたし、電器店であれば、商店街の店がつかう機器の販売から修理までを請け負っていた。店にとっては、これが安定収入となっていたのである。