「悲惨枠」

例えば、当事者とメディアの関係で言えば、メディアがうまみを根こそぎ持っていき(PVや視聴率を上げるなど)、問題提起ができず当事者の体験が正しく活用されない場合などだ。
また、例えば性被害の記事やそれを描いた映画などが「エログロコンテンツ」として利用されたりすることも、「消費されること」の例だろう。

先ほど「気を抜くと際限なく消費される」と言ったが、どういうことかを少し説明したい。
こちらの意図とは別に、「可哀そうな話」「悲惨な話」を求められることがある。
そのエピソード、この問題提起に必要ないだろうと思うような、個人的な、極めて悲惨な話を引き出そうとされる。

そして「悲惨枠」みたいなものに押し込められていく時、本当に苦しくて仕方がない。
(もちろん、ちゃんと問題提起しようと取材してくれることも多いが、一部でそういうことが起きるのだ)
そして、相手に悪気は無いのだ。
きっと無意識に、インパクトのある話題を探すし、言い方は悪いが映えた方がより多くの人に知ってもらえるという意識から、何の疑いもなくそうしている場合もあるのではないかと推察する。

写真提供◎AC

私は、あくまで自分の体験を語ることで社会の問題が少しでも伝われば、見えなかった世界が伝われば、と思っている。
「同情されたい」「可哀そうと思われたい」という欲は全くなく、むしろそう思われないよう常に細心の注意を払っている。
しかし問題の深刻さを伝える必要もあり、バランスがとても難しく、いつも頭を悩ませる。

実際読まれなければ視界にすら入らないので、あくまで関心を持ってもらうことは必要なのだ。
だからと言って、過剰に悲惨さを演出するようなことは絶対にしたくない。そこはいつも戦いだ。