本当に言いたいことは全然違うことだったりする

貧困に限らず、あらゆる問題の当事者は、同情されたくて発信しているのではないと思う。身を削ってでも伝えるのは、ないことにされている問題を可視化したい、自分と同じ思いをする人をなくしたい、少しでも社会をよくしたい、という思いからではないだろうか。

当事者はどうしても消費されやすい。メディア仕草として、本筋ではないパーソナルな情報を引き出そうとしたり、キャラ立ちさせようとしたりする動きがある。

そして発信すると当事者の思いとは裏腹に、「同情を集めたいだけ」「目立ちたいだけ」「可哀そうアピール」なんて言われてしまうことが多い。
少なくとも私は、そういった反応があることが予想されるので、自分の体験を出すときは極力「可哀そうでしょ」という押しつけのようなものを排するようにめちゃくちゃ気を付けている。

『死にそうだけど生きてます』(著:ヒオカ/CCCメディアハウス)

しかし、取材を受けたりイベントで話したりすると、どうしても悲惨なものを求められ、「可哀そうでしょ」感を盛り立てるような感じが出てしまう。
自分の意図とのギャップに、非常に苦しむ。
さらに、反応としてコメントで案の定「可哀そうアピール」みたいな声もあり、「ああ、そうじゃない・・・」と胸が引き裂かれそうになる。
こういった葛藤は、発信する限り不可避なものだとは思うが、やはり本気で傷つくし悩む。

欲しいのは生身の人間の話ではなく、欲しい絵に必要なピース、それに最適な「コンテンツ」なんじゃないか、と思うことがある。
自分に求められているのは「悲惨」ポジションなんだな、とだんだん分かってくるのだ。相手が欲しいのは「辛い」「苦しい」といったコメント。
でも本当に言いたいことは全然違うことだったりする。
少ないコミュニケーションで仕事をしないといけない時は相手の筋書に合わせる他ない場合もある。
でもそれは私が一番やりたくない役回りだったりする。