春日虎綱まで呼び寄せたという意味

一方で春日虎綱、という戦上手の武将がいます。高坂(香坂)昌信や弾正の名でも知られますが、文書の署名は春日虎綱のようです。

『武田二十四将図』。左上には春日虎綱(高坂弾正)の姿も(江戸時代・18世紀/東京国立博物館所蔵/colbase) 

若き日は信玄の寵童(ちょうどう)。この人は普段は海津城代を務め、上杉謙信の攻撃に備えていました。

後に武田信玄の嫡男・勝頼が信長・家康連合軍とぶつかった長篠の戦いの時も、虎綱は海津城に詰めて、出陣していません。ですが、信玄の西上作戦には参加している。

信玄は越中の一向一揆に働きかけて謙信を足止めし、虎綱まで呼び寄せていた。つまり、武田勢は連れてこられるだけの精鋭で軍を固めていたわけです。

そうなれば甲斐の守備はどうしても手薄になります。そこにもし徳川兵1万がなだれ込んだら収拾がつかなくなってしまったことでしょう。なので、やはり浜松城を捨て置いて、信玄が西に進むとは考えにくい。

でも、バルチック艦隊に対しての“東郷ターン”のように、敢えて急所を見せるように行動したことで、結果的に家康たちを蹴散らすのか。信玄の芸術の域にまで高められた戦術だからこそ成しえた、ということなのか。

このあたりの事情がドラマでいったいどう描かれるのでしょう? 次回必見です。


「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。