市川房枝(昭和46年10月撮影、本社写真部)
戦前から戦後にかけて、女性の地位向上を様々な方法で訴え続けた市川房枝。「女性の参政権」を求め、戦後は無所属の参議院議員として活躍した彼女の方法論は、今に生きる私たちのキャリア形成にも生きるものがあると、『日経WOMAN』編集長を務めたジャーナリストの野村浩子さんは言います。87歳で逝去する2ヵ月前まで、プラカードを持ってデモの先頭に立っていた市川房枝の行動から見えるものとは――。

高橋さんに恥をかかせるのか

女性差別撤廃条約は採択された。しかし、日本政府はなお腰が引けていた。

批准にあたっては、国内法の改正を迫られるという大きなハードルがあったからだ。政府は各省との調整が間にあわないという理由で、中間年にあたる80年の署名式に参加しない方針だった。

しかし、市川はこれを「許さない」と詰め寄った。総理大臣はじめ各大臣、外務省、東京都知事への申し入れ、先述した通り、全国40を超える女性団体を束ねての働きかけ、意見表明、請願書提出などを行った。

署名式は、1980年7月17日、デンマークのコペンハーゲンで開かれる、「国連婦人の10年中間年世界会議」で行われることになっていた。代表して署名する任にあたるのは、日本で女性初の大使として注目されていたデンマーク大使の高橋展子。

7月上旬に到着した日本代表団のメンバーとともに、現地で息をのむ思いで結果を待っていた。代表団メンバーからは「市川先生が、『高橋さんに恥をかかせるのか』と(政府に)迫ったんですよ」と、その奔走ぶりも聞いていた。