87歳までデモの先頭に立ち続けた
「平和と平等を国際的な連帯で実現していこう」と呼びかけたのだ。女性をとりまく社会状況、労働環境、国際情勢など、今日とあまりに重なるところが多いことに驚かされる。
午前10時半に始まった大会は、午前のプログラムを終えたあと、参加48団体がそれぞれのスローガンを掲げたプラカードをもって登壇した。
「台所の声を政治へ 子育てに男女差別は止めましょう」(主婦連合会)
「平和は男女平等から 安心して子どもを生み、働ける職場に」(婦人労働研究会)
「婦人の労働権確立を」(日本労働組合総評議会婦人局)
「女性解放は人間解放」(あごら)
「婦人の年金権の確立」(総評主婦の会全国協議会)
プラカードは会場いっぱいに広がり、盛んな拍手を浴びた。
午後のプログラムを2時半に終えたとき、さいわい雨はあがっていた。終了後は恒例のデモ行進である。日比谷から東京駅八重洲口まで、銀座通りを長い列をつくって歩く。
「婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条約の早期批准を!」と大きく横書きした横断幕を掲げ、最前列の中央を歩くのは、いつものように市川房枝。
地味なツイードのスーツに、真っ白な髪。元気にデモ行進をする市川の姿は、これが最後となった。その2カ月半ののち1981年2月に逝去、享年87歳であった。棺には女性差別撤廃条約の条文が納められた。
※本稿は、『市川房枝、そこから続く「長い列」──参政権からジェンダー平等まで』(亜紀書房)の一部を再編集したものです。
『市川房枝、そこから続く「長い列」──参政権からジェンダー平等まで』(著:野村 浩子/亜紀書房)
「私は憤慨しとるんですよ」
ジェンダー平等後進国といわれる日本で、100年前から女性の地位向上を訴えていた人がいた。戦前は男性にしかなかった「女性の参政権」を求め、戦後は無所属の参議院議員として人びとに慕われた。国際社会の外圧を使い、データを揃え、仲間を募り、社会に波を作る──市川房枝の方法論はいまも褪せない。