転ばぬ先の杖
父が現在自分でできている身の回りのことは、朝晩の着替え、歯磨き、トイレ。もうひとつは、杖なしで歩くことだ。よろめくことが増え、傍から見たらかなり危なっかしいが、本人はそう思っていないらしい。
「転倒して足や腰を骨折したら、長く入院しなければならないし、リハビリも大変だから、杖を買おうよ」
私と父の話を聞いていた義妹も、私と同じように杖の使用を勧めた。二人がかりで言うと、毎回のパターンで、父はどんどん頑なになる。
「俺は、何も困っていない。ちゃんと歩けている」
デイサービスの送迎の車に乗る時も、私の車で病院に行く時も、必ずよろめいて、人の手に支えられているのに、自覚がないのだろう。
介護事業所のケアマネージャーにも言ってもらったが、父は聞く耳を持たなかった。
こうなったら、父のかかりつけの医院に付き添いで行った際に、先生に相談するしかない。父は担当医を信頼していて、薬の飲み方などを指示されると、いつも素直に「はい」と返事をしている。
診察室で父の背後に立っていた私は、父の肩越しに伺いを立てた。
「パパ、私は先生に相談したいことがあるの。話していいかな?」
父は先生の前なので、にこやかにうなずいている。今がチャンスとばかりに私は、杖を持つことを父が拒む件を先生に相談した。
「先生、最近父は、足元が危なっかしいことが頻繁にあります。杖をついてほしいと思うのに、拒否するので困っているんです」
先生は、父をまっすぐに見て説得を図ってくれた。
「そろそろ杖を使いましょうか」
しかし、父は自信たっぷりに言い返す。
「いいえ、必要ありません。私は足が丈夫です」
「そうですか。94歳まで足が丈夫だったのは、立派ですよ。でも、いつか杖を使う必要が出てくるかもしれませんから、今のうちに練習しておきましょう」
それでも父は折れない。
「私は、杖が嫌いです」
どちらも口調はさほどきつくないのだが、内容的には結構なバトルだ。ハラハラしながら展開を見守っていると、先生はきっぱりとおっしゃった。
「元気なうちに杖に慣れておかないと、うまくつけなくて、手首をひねって骨折することがあります。手を骨折したら、ご飯を食べられなくなりますから、不便ですよ」
父は間髪を入れずに言った。
「結構です」
先生は切り札を出そうとしているのだろうか。数秒の間を置いてから、私の方をチラッと見て、茶目っ気のある表情を浮かべた。
「転ばぬ先の杖っていうじゃないですか」
ナイスですね!と、私は先生に拍手を送りたい気持ちだ。ところが、父はクスリともせずに答える。
「私は転ばないので、転ばぬ先を心配する必要はありません」
父に杖をつかせるのは無理だと悟り、私はすっかり気落ちしている。