以前の私は、手を差し伸べない冷静さを持っていた
私はふと、5年程前の父との会話を思い出した。父は当時まだ車の運転をしていて、私の家によくご飯を食べに来ていた。父の好物である、甘い卵焼きや、ミツバのおひたしを作ると、おいしそうに口に運ぶ。みそ汁を飲む時には必ず言った。
「温かくておいしいな。一人でいると、みそ汁を作らないから……」
「パパ、そろそろ一緒に住まない? 行ったり来たりはお互いに疲れるよね。同居すれば、もっと頻繁に私の作ったものが食べられるよ」
父の心が一瞬揺れたのが私にはわかったが、返事はそれまでと変わらなかった。
「考えておく」
「早く決めないと。準備の期間が必要だよ。なぜ嫌なの?」
さっきまでのしおらしかった父は、急に切り返しのシャープなおじいさんに戻り、いたずらっ子みたいな表情を浮かべて私を見た。
「おまえが、口うるさいからだ」
売り言葉に買い言葉で私は言い返す。
「じゃあ、気が変わったら言ってね」
掃除と洗濯は父の家に通って私がしているから、不自由を感じるのはご飯の支度だけだったのだと思う。その点は頼りたいが、「ほかは干渉されたくない」というのが父の本音だと思う。
夕食後しばらくソファに座ってテレビの野球中継を見ていた父が、贔屓のチームの負けが決まった途端に立ち上がり、帰り支度をしながら言った。
「今度また、卵焼きを作ってくれ」
後ろ姿を見送りながら、90歳の父と、私の息子の少年時代を重ねて見ていた。
子の世話になりたくないのに、自立して生きることが困難になりつつある老人と、親から自立したいのに、経済的にも能力的にもできない少年。共通のキーワードは「自立」だ。
5年の歳月が流れ、父は認知症が少しずつ進行してきた。父の生活をサポートする中で、私は今も父が「自立」してできることを少しでも残し、父の尊厳を守りたいと考えている。
「父の尊厳を守る」基準として、私が高齢になった時に、何を自立していたいかを考え、3つに絞った。
トイレに歩いて行く。自分の好きなものを食べる。歯を磨く。
私も年を取ってきて、親の世話をし続けるのは結構しんどい。その3つだって、サポートしても父はできなくなるかもしれないが、現状3つに絞るなら、どうにかやっていけそうな気がしている。
(つづく)
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