なぜ秀康は尊重されず、秀忠が跡取りになったのか

たとえば、日本史研究家の渡辺大門さんは、秀忠の母である西郷氏は三河の守護代を務めたことがある名門なので、頼朝方式で、秀忠は初めから跡取りだった、と記事で説明していらっしゃいました。それも説得力がありそうです。

ただ、西郷家がその頃さほど力を持っていなかったこと、それから何より、秀忠の母の実家のわりに繁栄しなかった、ということがひっかかります。

たとえば増山家という家があります。

徳川家光の側室で家綱の母・宝樹院を産んだ家で、彼女の弟である増山正利は譜代大名に取り立てられました(三河西尾藩2万石など)。

また新井白石の『藩翰譜』では、増山家は将軍家の親戚として、十八松平家の下、徳川四天王の上に位置づけられています。

これに対し、西郷家はそれよりもだいぶ下位に記述されています。「秀忠将軍の縁戚」としては、扱いがあまりよいと言えない印象が。