「武士の家で兄がエラい」というのは思いこみ

wikipediaなどには、「そんな変な人事はないだろうから、仙千代ではなくて、七男の松千代が平岩の養子になったのではないか」と書かれているようですが、どうでしょう。むしろ、考え方が逆じゃないか。

武士の家に兄と弟がいたら、兄が偉い。

これはおそらく現代の私たちの思い込みです。家康の時期は、もしくは家康にとっては、「兄が殿、弟が家老」でも「兄が家老、弟が殿」でもさほど問題ではなかった。

この史実を優先させて「家康にとって、子どもの長幼の序って何だったの?」と考えるのが、歴史的思考の本来ではないでしょうか。

そのことを踏まえると、家康は自分の跡継ぎ問題を、さほど難しく考えていなかった。信康の一件を経て

「信康以外なら、跡取りはもう誰でもいい。今なら西鄕局の子の長松か。そういえばお万の子もいたけれど、身近にいるのは長松だしな」

そんな感じで長松が跡取りの候補となり、そのあともさして問題が無いので「長松=秀忠」が2代将軍になったのではないでしょうか。