「長篠の戦い」の勝敗を分けたものとは? 本多先生の分析によるとーー(提供:PhotoAC)
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。次回の舞台は武田に包囲された奥三河の長篠城。城主・奥平信昌(白洲迅さん)はピンチを伝えるため、鳥居強右衛門(岡崎体育さん)を岡崎へ送り出す。強右衛門の手紙を受け取った家康(松本さん)は織田に援護を求め、いよいよ信長(岡田准一さん)が動き出す――といった話が展開します。

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。第1回は「武田軍は長篠までどう進んだのか」についてです。

長篠城と奥平信昌

長篠城の守将は、天正三年(一五七五)二月に入城したばかりの奥平信昌であった。信昌は二年前に父定能とともに武田方から家康に降り、起請文を下されて家康の娘婿になることが約束されていた。

武田軍は長篠城が奥三河の要衝であるということだけではなく、このような信昌への遺恨からも、長篠城をきびしく攻めることになった。信昌もまたそのような事情から武田方に降るという選択肢はありえず、この後頑強に抵抗することになった。

なお、信昌の「信」字は、信長の諱(いみな。実名のこと)からとされることも多いが、これは武田氏の通字「信」を与えられたものとみる方がよいだろう。

勝頼は医王寺山に本陣を置き、15000ともいわれる軍勢で長篠城を囲んだ。また、その後背にある鳶ノの巣山砦も押さえた。長篠城は南側は寒狭川(『信長公記』では滝沢川)、東側を大野川(同、乗本川)という二つの川を天然の堀とし、その合流点内側の段丘上に築かれた要害であった。