次女・熊姫は本多家に
次女の熊姫も14才ごろ、あの本多忠勝の嫡男、忠政と結婚しました。嫁ぎ先は徳川きっての忠臣である本多家ですので、これは嫁いびりとかとも無縁でしょう。
忠政との間に3男2女が生まれていますが、中でも注目すべきは次女が登久姫の生んだ小笠原忠真と結ばれていることです。
忠真は大坂の陣の後に信濃・松本藩8万石から播磨・明石藩10万石に移封されています。松本は小笠原先祖代々の地なのでちょっと疑問符が付きますが、まずまず栄進といってよいでしょう。
また忠政は同じく大坂の陣のあと、桑名藩主10万石からから姫路藩主15万石に移ります。こちらは文句なく出世です。
明石と姫路は同じ播磨国。つまり、信康の血を引く姫の婚家である両家の領地は並ぶわけです。
そして、そこに、大坂の陣で深く心を痛めたであろう千姫がやってくる。10万石の化粧料を携えて、忠政と熊姫の子、忠刻のもとに嫁いでくる。今度こそ幸せになってほしい、という幕府の配慮が、そこには確実にあったように思えてなりません。
こうやって見ていくと、家康は、また秀忠は、信康の子にあたたかい配慮をしていたように見えます。もし家康と信康が激しく対立していたら、こんな心遣いはなかったのではなないかなあ。
『「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。