池田さん「ゲーセンはビジネスとしてまったく時代に適応していない」(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
新型コロナウイルスの蔓延で、窮地にたたされた業界は多々ありますが「ゲームセンター」業界も例外ではありません。中小店が苦境に立たされる中、多彩なラインナップと企画力で愛され続けている「ゲーセンミカド」。「ゲーマーの聖地」として国内外で名を知られています。「ゲーセンミカド」を開店した池田稔さんは、ゲーセンについて「ビジネスとしてはまったく時代に適応していない」と言っていて――。

ミカドができるまで

堀江貴文が逮捕されたライブドア事件が、世間を騒がせていた2006年のある日、会社を辞めて友人たちとゲームの攻略DVDやサントラを作っていた僕のもとに、知人がこんな話を持ってきた。

「歌舞伎町に居抜きで売られているゲームセンターがある。池田くん、興味ないか」

子供の頃からゲームセンターが好きで、人生のほとんどをゲームと過ごしてきた僕にとって、自分のゲームセンターを経営することは昔からの夢だった。

1974年生まれの僕は、5歳でインベーダーブーム、9歳でファミコン、中学生になってからはPCエンジン、メガドライブ、ゲームボーイ、スーパーファミコン……とにかく毎年のように新しいゲームハードが登場する時代に生きていた。

シューティング、アクション、対戦格闘ゲーム、あらゆるジャンルに勢いがあり、ゲームセンターに行けば最新の刺激があった。

ゲーム漬けの生活のなかで高校をドロップアウトした僕は、19歳でゲーセン店員になり、21歳のときにゲームセンターの筐体を売る会社に就職。業界の仕事を続け、30歳で独立。

ゲームの攻略DVDやサウンドトラックを作る会社を経営していた。

そんな僕にとって、自分の「場」であるゲーセンを持てるかもしれないという提案はとても魅力的だった。

お店の値段は600万円。

当時の僕にとっては到底一括で払える額ではなかった。

あきらめきれず、さんざん迷った末に、僕は必死でお金をかき集め、このゲームセンターを買った。

それが「ゲーセンミカド」歌舞伎町店のスタートだった。

お店の主役は、いまでは見かけなくなったような古いアーケードゲーム。特にビデオゲームには力を入れた。

時代の流れと逆行するような古くさい小さなお店だったが、ゲームを愛するお客さんとスタッフに支えられて、ミカドはじわじわと根強いファンを増やしていった。

それから3年後。

2009年にテナント契約上の都合で、歌舞伎町のビルから高田馬場のビルへと移転し、以来、いまに至るまで僕はここでゲームセンターを続けている。