近年の研究動向

ところで、信康の資質や徳姫との不和が直接の原因だとしても、それだけでは、信康と築山殿を生害(しょうがい)するに及んだことについての説明としては不十分である。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

この点について、近年の研究動向をみると、徳川氏内部の家臣団の対立や、とりわけ外交路線問題での対立を重視する傾向が強い。

すなわち、徳川氏の家臣団の中で、家康=浜松衆と信康=岡崎衆との対立、浜松派と岡崎派の対立をみるのである。そしてその対立の原因として、外交路線で織田方か武田方かがあったとするのである。

さらに、大岡弥四郎事件まで遡って、家康を中心とした浜松城の対武田氏主戦派と、その路線の見直しを求める岡崎城の信康周辺との対立があり、信康事件の背後には、この武田氏外交をめぐる路線対立があったというのである。