信康事件の際に名のある家臣で処罰された者はいない

大岡弥四郎事件の決着後、家康はこれを苦い教訓として、二度とそのような事態が起こらないように、岡崎城の信康周辺には細心の注意を払ってきた。

たとえば、『家忠日記』によれば、信康事件前年の天正六年(一五七八)九月五日に、「家康より鵜殿善六を御使として、岡崎在郷は無用であるとの由、仰せ越された」とあり、二十二日には吉田城の酒井忠次からも同様の通達が来ている。「岡崎在郷は無用である」とは、すでに諸氏が述べているように、岡崎に詰めることで国衆たちが信康と親密になることを回避しようとした措置であった。

折に触れてそのような措置が講じられていたとすれば、家康を中心とする浜松派家臣団と外交路線で対抗できるほどの信康を中心とする岡崎派家臣団の形成などはありえなかったであろう。

信康事件の際に、名のある家臣で処罰された者がみられないことも、そのような勢力がなかったことを示唆する。