信康・築山殿は本当に武田氏と通じていたのか?(提供:PhotoAC)
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第25回では、瀬名と信康によるはかりごとが武田勝頼(眞栄田郷敦さん)の手で暴かれ、信長の知るところとなってしまいます。家康は2人の始末を迫られるも、信長の目を欺いて妻子を逃がそうと決意し――といった話が展開します。

一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。第3回は「信康・築山殿は本当に武田氏と通じていたのか」についてです。

原因は「信康の資質」と「徳姫との不和」だとしても

前回の記事にも記したとおり、信康事件に至る直接の原因は、粗暴だといわれていた信康の資質と、徳姫との不和にあったと考えられる。

たとえば『松平記』によれば、「武辺は勝れ」ていても、「余りに荒き人にて、かりにも慈悲と云うことを知らず」とまでいわれ、鷹狩りに出かけた折に、僧侶を無残に殺害するようなこともあったという。

徳姫との関係でいえば、当初は夫婦仲が悪いわけではなかったようであるが、『松平記』によると天正五年(一五七七)頃から不和になったという。

二人の間で天正四年に女子が誕生した時には、「三郎殿も築山殿もそれほど悦ばれなかった」といい、翌五年にまた女子が誕生して、「三郎殿も築山殿も御腹立ちになった」といっている。これが不和の原因になったというのである。