信康・築山殿による武田氏との通謀はあったのか?
そうなると、信康や築山殿が生害されるにまで及んだ事情については別に求めなければならなくなるが、そこで注目されるのは、信康や築山殿の周辺に、 謀叛を疑われるような事態があったといわれていることである。
大岡弥四郎事件ではたしかに武田方に通謀する企てがあったが、『松平記』によれば、これには築山殿の関与もあったとみられている。今川氏とゆかりが深く、家康とは不仲であった築山殿には、武田方からみれば付け入る隙があったのであろう。
弥四郎事件の決着後も、築山殿の周辺には、引き続き武田方と通ずる動きが残されていた可能性がある。
注目すべきは、『信長公記』の初期のものといわれる『安土日記』に、「三州岡崎三郎殿に逆心の雑説(ぞうせつ)が申されている」といわれていることである。
つまり、信康には「逆心」=謀叛を疑われるような雑説(噂)があり、武田氏との通謀が疑われていた。
『家忠日記』の天正六年(一五七八)二月四日の条では、信康の母(築山殿)から音信(いんしん。便りのこと)があったといっているが、当時の社会通念からすれば異例のことであった。十日の条では、信康が深溝(ふこうず。愛知県幸田町のこと)にやってきたとあり、わざわざ家忠のもとを訪れているのも、関連した動きかもしれない。
つまり、築山殿と信康サイドで、家臣に対するいわば多数派工作が行なわれていたとも受け取られかねない動きであった。
築山殿は弥四郎事件の際には罪を免れたものの、再度の謀叛の疑いで、女性でありながら生害を免れなかったのであろう。信康もどこまで主体的であったかどうかはともかく、築山殿と連動する動きがあり、それが謀叛の疑いということになっては、同じく成敗を免れなかったといえよう。
※本稿は、『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)の一部を再編集したものです。
『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)
弱小大名は戦国乱世をどう生き抜いたか。桶狭間、三方原、関ヶ原などの諸合戦、本能寺の変ほか10の選択を軸に波瀾の生涯をたどる。