事件が起きた時点で“信康派家臣団”は存在したのか
これに対して、筆者は今回の信康事件の背後に、ことさらに家臣団や外交路線の対立があったとみることには、疑問を感じている。
たしかに、四年前の天正三年(一五七五)に起こった大岡弥四郎事件の時点では、岡崎城の信康周辺にそれなりの家臣が結集していたようにみられる。
家康の浜松派家臣団にある程度対抗できるだけの信康の岡崎派家臣団が形成されており、路線対立があったといってもよいほどの家臣団の結集がみられた。
しかしながら、信康事件が起こった時点で、果たして浜松城の対武田氏主戦派と対抗できるような岡崎城の信康派家臣団など存在したのであろうか。