自宅のベランダでガーデニング。野菜や草花を慈しむ

エレベーターガールをしながら

幼い頃から歌が大好きでした。私がラジオから流れてくる美空ひばりさんや島倉千代子さんの歌を口ずさんでいると、母が「こう歌うといいんだよ」と教えてくれて。小学生の頃、地元・静岡ののど自慢大会に出て、「悲しい酒」を歌い、子どもがこんな曲を歌うもんじゃないと最終審査で落とされたことも。父は若い頃、のど自慢大会荒らしだったようですし、二人の兄たちも歌好きでしたね。

実家は静岡県の湯ヶ島でワサビ栽培をしていました。父は長距離トラックの運転手もする兼業農家でしたが、暮らし向きは苦しかった。母は大丈夫だと言ってくれていたけれど、お金がないことは子ども心にわかっていました。

お金の大切さが身に染みていたからでしょう。幼少時代から早く稼ぎたいと思ってました。家も築100年の、夏は死ぬほど暑くて、冬は死ぬほど寒い家だったので、建て直さないといけない。でもどうやって? と考えていた時、テレビで歌手が綺麗な服を着て歌っているのを見て、コレだ! と。綺麗な服を買えるんだから歌手は儲かるに違いないって、単純にそう思ったんですよ。

高校を中退して上京し、母の弟が宝塚で照明の仕事をしていたことから、新しく設立する東宝レコードのオーディションを受けさせてもらいました。合格後は、会社設立まで、日比谷のスカラ座のエレベーターガールなどをして働きながらレッスンを受けていてくださいって言われて。1年ほどそういう生活をしていたんですけど、あれはあれで楽しかったな。

1971年の4月、17歳の時に「大都会のやさぐれ女」という歌でデビューしましたが鳴かず飛ばず。でも焦りはなかったです。芸能界で成功するのは簡単じゃないと腹をくくっていたので。当時、全国津々浦々でキャンペーンをしました。

レコード店の前で歌うのはいいほう。山奥にポツンとあるスナックを訪ねて、歌わせていただけませんかってお願いするんです。門前払いをされることもあったけど、平気でした。歌手で食べていくことを目指す人がもれなく通る道なんだ、と思っていたから。

その後も苦しいことがあるたびに、「ここを乗り越えればいいことがある」と思ってやってきました。実際、そうなんです。明けない夜はないというのは真理ですね。