織田軍の総司令官として
また、信長との関係をうかがわせるエピソードも伝わっているが、通常、信長とのエピソードといえば、明智光秀のように信長からいじめられたり、羽柴秀吉のように厳しい処分を受けたものが多いが、勝家に関しては、逆に信長をやり込めたという逸話がある。これは珍しい事例であろう。
信長にも引けをとらない武将だったという名残でもあろうか。越前国(現在の福井県)を「支配」した勝家を訪問した宣教師の記録には、勝家の地位や権力は、越前国においては信長にも等しい、と表現しているほどである。
当時来日していた宣教師ルイス・フロイスの書簡には「柴田殿が戦場での総司令官になった」「総司令官の柴田殿」という記述から見られる。将軍足利義昭が信長に叛旗を翻した時、これを鎮めるために信長が上洛し、勝家が織田軍の総司令官となって指揮を執ったことによる。
その後、信長は各地で敵対する大名に対し、いわゆる「方面軍」を設置したため、織田軍全体の総司令官という地位は限られたものになったが、信長家臣の中では勝家と佐久間信盛が両大将ともいうべき地位にあり、信盛追放後は、勝家が「信長の重鎮」として他の方面軍司令官とは一線を画す存在であった。
秀吉が名乗った「羽柴」という名字は、織田家重臣の丹羽長秀の「羽」と、柴田勝家の「柴」を組み合わせたものと推測されている。信頼できる史料からは確認できないが、おそらく通説通りの解釈でいいだろう。もし、勝家と仲が悪ければ、勝家の名字から一字を拝借することはないだろう。もちろん、御機嫌取りでもなかろう。