秀吉は勝家が最大の敵であると認識していた
山崎の戦いから賤ヶ岳の戦いに至る1年弱の間の秀吉は、その生涯で最も輝いていた時期であり、まさに絶好調であった。信長の遺児(信雄と信孝)の扱いには苦慮したが、やることなすことすべてうまくいったという印象である。
秀吉は勝家をたおしたあと、毛利方の小早川隆景に宛てた書状の中で、勝家との賤ヶ岳の戦いについての詳細を知らせ、「柴田勝家は、秀吉が若い時からたびたび武功を挙げていた武辺者であり、三度まで鑓(やり)を合わせ、目を驚かせた」と勝家を称えている。
勝家の最期の場面についても「日頃から武辺を心掛けている武士だけに、七度まで切って出て戦ったが、防ぐことができず、天守の九重目まで上がり、秀吉軍に言葉をかけ、『勝家の切腹の仕方を見て、後学にせよ』と呼びかけた。
心ある侍は涙を流し、鎧(よろい)の袖を濡らし、あたりはひっそり静まり返った。勝家は妻子や一族を刺殺し、80人余りが切腹して果てた」と伝えている。劇的な情景が浮かんでくる。
また、秀吉はこの書状の中で、勝家を猛追したことで秀吉側にも犠牲者が出たが、「日本の治まりは、今この時である」と決断したので兵士を討死させても秀吉の不覚にはならないと思った、とも記している。
秀吉は勝家が最大の敵であると自覚し、賤ヶ岳の戦いを「天下分け目」の戦いと認識していた。秀吉の伝記作者といわれる大村由己(おおむらゆうこ)も、軍記『柴田退治記』の中で、勝家との戦いが天下を決するとの認識を披露している。