ふと、この景色を見られる自分は、なんてしあわせなのだろう、と思った(写真はイメージ/写真提供:photo AC)

「できない」とともにやってきた豊かな時間

この時期からしばらく後のことであるが、ある真冬の日、駅の改札を出ると雪が降っていた。不意の天候に傘がなく、ぼんやり空を眺めていると、ふと横に立つ人があった。

「あなた、これ使いなさいな」

そう言い、傘をすっと差し出したのは見知らぬ老婦人だった。生地に張りのある、持ち手の太い良い傘だった。

「でも」と言うと、「こういう時にいちばん必要な人が使うのがいいのよ」と言い、婦人は私に傘を握らせ、ショールをさっと頭から羽織って降りしきる雪の中に出て行ってしまった。

私はその傘を握りながら、慎重に雪の中に足を踏み出した。

周りの人々が足早に進んでゆくなか、駅からほんの数分の帰り道を、転ばないよう小さな歩幅で、地面を踏みしめながら歩く。持ち手の重みにあたたかさを感じながら。